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千原ジュニアという詩人
前回、千原ジュニアについて書いてからだいぶたってしまったが、
ネットをいろいろ見ていて、ある一つの本に千原兄弟のコントについて詳しい分析があると言うことで
早速注文して読んでみた。
阿部 嘉昭 『実戦サブカルチャー講義』(2002)
なかなか興味深かったです。
全体的には日本のマンガやTV、J-POPなどを扱った立教大学での講義をまとめたもので、
古屋兎丸や椎名林檎なんかも取り上げられているんだけど、
その中の2章を使う、かなりのボリュームで主に初期のコントライブについての考察が載っていた。
「4章 千原浩史の身体的展開力はライヴコント「拓ちゃん」でついに松本人志と肩を並べた」と「5章 多数派/少数派の回転装置となる千原兄弟の『PINK』ではとりわけピンクの配色に注意せよ」なんて、タイトル見ただけで、千原兄弟に詳しい人ならかなり興味を引かれると思う。
いろいろ、面白いことが書いてあったんだけど、自分が一番興味深かったのはこの部分。
お笑いの進化の過程をビートたけし→松本人志→千原浩史と位置づけた阿部は、坂口安吾と千原浩史との共通性を見出し、次のように書いています。
たけし―松本はともに認識論的な詩人であり、ジュニアは存在論的な詩人であると阿部はいいます。(これはもちろんたけし―松本がジュニアよりも劣っていると言うことを意味しません)
つまり、たけしや松本の《詩人性》は、彼らの映画やコントなどには色濃く現れているが、その他の仕事では薄められてしまう。しかし、ジュニアの《詩人性》は、彼が存在している限り現れ続ける、という風に自分は解釈しました。
阿部は、ジュニアの詩人気質を見事に拾っている仕事として、前回自分も挙げた豊田利晃『ブラッドブラザー』を紹介する(実際に授業で詩の部分を抜き出したものをプリントで配布したらしい)。
そこに書かれている詩は、主に60年代カウンターカルチャーへの異議申し立てであると分析する。
例えば、
『ブラッドブラザー』の「かっこいいことがかっこ悪い時代はもう/終わったんだ」は、「かっこいいことは/なんてかっこわるいんだろう」という元ジャックス早川義夫のソロアルバムのタイトルに対応しており、
「家があったから家出少年になれたんだ」は、寺山修司『家出のすすめ』を読んで小さな冒険としての「家出」を敢行したような、60年代の甘えた完成への揶揄が感じられるとする。
今、ジュニアと詩人性について阿部の考察をまとめてみて浮かんだ疑問が2つある。
1つは、ここで言う「詩人」的要素が具体的にどういったことを指すのかということ。
2つ目は、なぜ、ジュニアの「詩」が私たち(というか「私」)の心を打つのかということである。
1つ目は、「なんとなくジュニアの書くコントや文章は詩的だ」と言うときの「詩的」と、上にも挙げた、松本のコントの中に感じられるダダイスト的破壊力をもつ「詩」は、同一のレベルのものとして考えてよいのか、という疑問である。
上で挙げるたけし・松本の「詩」は、作家性とも言い換えられるような気がする。
しかし、日常的に私たちが使う「詩的」という言葉のニュアンスは、どちらかと言うとジュニアのほうに適している気がする。
では、具体的にジュニアの作品における詩的要素とは一体なんなのか。私たちがジュニアを見て「詩的」と感じるのはどの部分においてか?
2つ目の疑問であるが、ジュニアの文章や、コントに含まれる「詩」には、旧世代への異議申し立てという要素があり、それは、1970年代生まれの基本的感覚だと阿部は述べている。
その意味でも、ジュニアが好きなブランキーとの共通点も見出せるわけなのだが、
ならばなぜ、千原兄弟がこれほど私たち(というか私と阿部)にとって重要な感心ごとなのだろうか。
阿部が千原のコントで好きな部分として挙げている部分(コント「こうちゃん」の一節)で、ジュニア扮する幼稚園児の「浩ちゃん」がそろばん塾に通う小学生の兄靖史にいうセリフ
「浩ちゃんな、お兄ちゃんが今まで無駄に納めてきた月謝があったら、どれだけのことが出来るかそろばんではじき出す」
は、自分も好きなのですが、めちゃめちゃ古典的なギャグなんですが、ジュニアが言うと笑える。
普通と違うニュアンスに聞こえる。
そこにはたぶん、ここに言語化できるもの以外のものがある。
ジュニアの「詩」の特徴は、その意味内容よりもむしろ、スタイルのほうにある。
それこそ、ジュニアが詩人であることの証明のような気がする。
ネットをいろいろ見ていて、ある一つの本に千原兄弟のコントについて詳しい分析があると言うことで
早速注文して読んでみた。
阿部 嘉昭 『実戦サブカルチャー講義』(2002)
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なかなか興味深かったです。
全体的には日本のマンガやTV、J-POPなどを扱った立教大学での講義をまとめたもので、
古屋兎丸や椎名林檎なんかも取り上げられているんだけど、
その中の2章を使う、かなりのボリュームで主に初期のコントライブについての考察が載っていた。
「4章 千原浩史の身体的展開力はライヴコント「拓ちゃん」でついに松本人志と肩を並べた」と「5章 多数派/少数派の回転装置となる千原兄弟の『PINK』ではとりわけピンクの配色に注意せよ」なんて、タイトル見ただけで、千原兄弟に詳しい人ならかなり興味を引かれると思う。
いろいろ、面白いことが書いてあったんだけど、自分が一番興味深かったのはこの部分。
お笑いの進化の過程をビートたけし→松本人志→千原浩史と位置づけた阿部は、坂口安吾と千原浩史との共通性を見出し、次のように書いています。
「ジュニアと安吾の共通点は、存在のありかたがそれ自体「存在論」的だという点にあると僕はおもっています。それはこうも言い換えられる―彼らは唯物論的思考のなかに、不可避的に「詩の発想」を絡めてしまう独特の思考法しか持ち得ない―というように。(p.106)」
たけし―松本はともに認識論的な詩人であり、ジュニアは存在論的な詩人であると阿部はいいます。(これはもちろんたけし―松本がジュニアよりも劣っていると言うことを意味しません)
「たけしにおいては、『詩』は映画監督北野武という局面の中にのみ浮上する(省略)。松本においては、『詩』はその創作コントの奥を彩る模様のなかに、ダダイスト的な破壊力としてかすかに感じられる。(同上)」
つまり、たけしや松本の《詩人性》は、彼らの映画やコントなどには色濃く現れているが、その他の仕事では薄められてしまう。しかし、ジュニアの《詩人性》は、彼が存在している限り現れ続ける、という風に自分は解釈しました。
阿部は、ジュニアの詩人気質を見事に拾っている仕事として、前回自分も挙げた豊田利晃『ブラッドブラザー』を紹介する(実際に授業で詩の部分を抜き出したものをプリントで配布したらしい)。
そこに書かれている詩は、主に60年代カウンターカルチャーへの異議申し立てであると分析する。
例えば、
『ブラッドブラザー』の「かっこいいことがかっこ悪い時代はもう/終わったんだ」は、「かっこいいことは/なんてかっこわるいんだろう」という元ジャックス早川義夫のソロアルバムのタイトルに対応しており、
「家があったから家出少年になれたんだ」は、寺山修司『家出のすすめ』を読んで小さな冒険としての「家出」を敢行したような、60年代の甘えた完成への揶揄が感じられるとする。
今、ジュニアと詩人性について阿部の考察をまとめてみて浮かんだ疑問が2つある。
1つは、ここで言う「詩人」的要素が具体的にどういったことを指すのかということ。
2つ目は、なぜ、ジュニアの「詩」が私たち(というか「私」)の心を打つのかということである。
1つ目は、「なんとなくジュニアの書くコントや文章は詩的だ」と言うときの「詩的」と、上にも挙げた、松本のコントの中に感じられるダダイスト的破壊力をもつ「詩」は、同一のレベルのものとして考えてよいのか、という疑問である。
上で挙げるたけし・松本の「詩」は、作家性とも言い換えられるような気がする。
しかし、日常的に私たちが使う「詩的」という言葉のニュアンスは、どちらかと言うとジュニアのほうに適している気がする。
では、具体的にジュニアの作品における詩的要素とは一体なんなのか。私たちがジュニアを見て「詩的」と感じるのはどの部分においてか?
2つ目の疑問であるが、ジュニアの文章や、コントに含まれる「詩」には、旧世代への異議申し立てという要素があり、それは、1970年代生まれの基本的感覚だと阿部は述べている。
その意味でも、ジュニアが好きなブランキーとの共通点も見出せるわけなのだが、
ならばなぜ、千原兄弟がこれほど私たち(というか私と阿部)にとって重要な感心ごとなのだろうか。
阿部が千原のコントで好きな部分として挙げている部分(コント「こうちゃん」の一節)で、ジュニア扮する幼稚園児の「浩ちゃん」がそろばん塾に通う小学生の兄靖史にいうセリフ
「浩ちゃんな、お兄ちゃんが今まで無駄に納めてきた月謝があったら、どれだけのことが出来るかそろばんではじき出す」
は、自分も好きなのですが、めちゃめちゃ古典的なギャグなんですが、ジュニアが言うと笑える。
普通と違うニュアンスに聞こえる。
そこにはたぶん、ここに言語化できるもの以外のものがある。
ジュニアの「詩」の特徴は、その意味内容よりもむしろ、スタイルのほうにある。
それこそ、ジュニアが詩人であることの証明のような気がする。




